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端午の節句は、もともと女性の行事だった!?由来や歴史が深い!

   

現在では、5月5日は端午の節句として、男の子の健やかな成長を願うお祝いになっていますが、
もともとは女性中心の行事だったと言われています。
これは意外な事実ですよね!
では、どこでどうなって現在の男児を祝う行事になったのでしょうか??
今回は「端午の節句」の由来や歴史について見ていくことにします。

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なぜ端午の節句が女性の行事だったの?

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端午の節句は、もともと女性中心の行事だったということですが、どうして女性の行事だったのでしょう?
そして、なぜ女性の行事から男児の祝いに変化していったのでしょうか?
この答えには、中国の風習や日本が農耕民族であったこと、さらに武家社会の台頭が深く関係していました。
それでは少しずつひも解いていきましょう!

端午の節句の由来

端午の節句のルーツは、中国の漢の時代までさかのぼります。
本来、端午とは「端」は初めを表し、5月の初めの午(うま)の日を指していました。
当時、5月は「悪月」と言われ、よくない月とされていたことから、
「邪気を払う」とされる菖蒲湯に入り、心身を清める習慣がありました。
時の流れと供に、端午は「端五」とも表わされ、同じ数字が続くこと(ぞろ目)は縁起が良いということもあり、5月5日を端午の節句とし、邪気を払う行事となっていくのです。

田植えは女性の重要なイベント

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一方、日本の5月は旧歴でいうと、田植えのシーズンにあたります。
古来から田の神様は、春になると山から降りてきて「田に宿る!」と考えられていたため、田植えをする若い女性(早乙女)には重要な役割がありました。
その役割とは、
田植え前に、神様に失礼がないようにと、ずっと家の中で精進生活をすることで心身を清める「五月忌み(ごがついみ)」を行い、豊穣を祈願することです。
このように、田植えは女性の重要な行事でもありました。

田植えと中国の風習が融合

奈良時代になると、中国から端午の節句の風習が伝わり、全国に拡がっていきます。
そして、日本古来の田植えの行事と中国の端午の「邪気払い」が融合していき、
5月5日やその前夜には、菖蒲を家の軒先に吊るして、家の中の邪気を払い、また田植えをする女性は、家の中にこもり「田の神」に五穀豊穣(ごこくほうじょう)を願うようになりました。
この日だけは、女性が家の主となり「いばる」ことが出来たらしく、この時代の端午の節句は、女性が中心となった「豊穣」を願う行事であったといわれています。

どうして男児の祝いに変わってしまったの?

ところが、
鎌倉時代に入ると「がらり」と意味合いが変わっていきました。

武家社会で男児を祝う行事に

鎌倉時代になると、武士が力を持つようになる武家社会が始まります。
武士中心の世の中では、端午の節句は、邪気払いの菖蒲と「尚武(しょうぶ/武道・軍事などを大切なものと考えること)」をかけ、武士の家で祝う行事と変化し、また武家では跡取り問題は重要であったため、男児が無事に成長していくことを祈願する行事になっていきました。
鎧飾りもこの頃からするようになったとされ、男児を祝う行事としての原形が出来ていたことになります。

さらに時が流れ江戸時代に入ると、端午の節句は、庶民にも男児のお祝いとして定着するようになりました。
吹き流しをあげる武家に対抗して、町屋の人々が鯉のぼりをあげるようになったものこの頃です。

このように時代の流れと供に、端午の節句の行事が変化しており
もともと女性の行事だったものが男児の健やかな成長を願う行事として、今日に至るようになりました。

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